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【2024/05/09 06:21 】 |
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『あとがき』より
 著者は、勿論専門家ではないので、不備な点がたくさんあるとは思いますが、誤りがございましたら、著者の責任でありますのでご教示お願い申し上げます。

 この冊子を見て、本物を見てみたいと思ったら、訪ねてみて下さい。失われた樹もありますが、きっと何かを感じることができると思います。

 そして、この冊子は本棚や引き出しの中にしまったままではなく、大いに連れ回してほしいのです。その結果「ボロボロ」になったら、著者までご連絡をください。喜んで新しい冊子を提供したいと思います。

 それでは、樹とのすばらしい出逢いがあることをお祈りいたします。

著    者  兼子 (大正9年生まれ)
住    所  岩瀬郡天栄村
編集協力  佐藤

平成14年5月 吉日発行
平成16年7月 一部追加

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冊子『わがふるさと天栄村での樹との出逢い』は約150部作成しましたが、故兼子氏が知人等に配布し、手元には残っていなかったようです。

編集を協力した私の手元にも冊子としては残っておらず、エクセルのデータとpdfファイルとして残っているだけです。

あとがきにあるように『喜んで新しい冊子を提供したい』とありますが、冊子として提供できないため、このブログをプリントアウトして使用していただければと思います。

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【2011/01/06 15:58 】 | 樹との出逢い| comment(0)| trackback()
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四十八 お葉付きイチョウ「口説」
48-3.jpg 我が村に、お葉付きイチョウの木が2本あり、その1は大里西小屋(二十三 お葉付イチョウ 【西小屋)の武隈神社境内に、その2は下松本権太夫内(二十四 再発見、お葉付き銀杏 【権太夫内】)の三島権現神社境内に見られる。

 イチョウの木は古くなると、下枝の脇から乳母のように乳根が垂れ下がり、住民の婦人達に母乳の神として崇められていました。

乳幼児の母親は乳不足となると心配で作業も出来ず、はかない毎日であった。

ある日のこと、夢路に知らせがあり神社のイチョウ古木を礼拝すると、母乳が出るとお告げたと云われ、頼るのは神様だけと哀れな日々を送っていた。

母乳不足の母親があり、信仰を続けると乳幼児はみるみるうちに丸々と育ったと云う。
48-1.jpgこの信仰の事が白河藩主権少将越中守松平定信公の耳に入ったと云う。

定信公は海防外国船入港の防備のため、現在の千葉県富津市を訪れた際、乳幼児を持つ母親や、乳不足で悩む婦人達のためにとして、薬王寺境内に定信公自ら植樹されたと云えられる。

そのイチョウの木は現在樹齢約百年、目通り3・8㍍、樹高18㍍で千葉県の天然記念物にも指定され「竹岡のオハツキイチョウ」として親しまれている。(写真→)

0cb140bc.jpeg
同じ千葉県の神崎町にある神崎小学校にもお葉付きイチョウ植えられており、目通り3・1㍍、樹高26・6㍍である。
(写真←)



【2010/02/24 16:10 】 | 樹との出逢い| comment(0)| trackback()
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四十七の二 馬魂碑 【中屋敷】

47-2.jpg 大字白子板宮神社参道東側に忠魂碑が建立されている。

昭和12年9月15日、馬匹にも軍馬徴発動員令が下達された。

我が白子地区には、良好馬が多いのか、この年12頭、次の年6頭、その次の年も6頭と徴発され農家には痛烈であった。

 しかし戦争に勝つまでは戦いを続けなければといって、近所の主婦たちは、カラ麦を持参し『これを食べて元気でがんばってな、そのうち私の息子も戦地に行くからな。』と馬に声を掛けていた。

 馬の出発の時刻も迫り、隣近所の人々も次々訪ねて来た。

この日は生憎朝から雨が降っていて、馬匹主家の弟重春が、土蔵の前でひとり泣いていた。

近所の婦人が、なぜ泣いていると優しく訊ねると、重春は、雨に濡れて行くのが可哀相だと言って泣き、婦人が、戦争のためだから仕方がない事だと言うと重春は、雨に濡れて行く愛馬を道路まで出て見送った。

口の利けない馬にも通じたのか、馬は50メートルほど先の丁字路で足を止め、見送る里人達に幾度も振り向きながら、征討へと歩んで行った。

 昔は、馬も家人と同じく馬半財産と言われ、大切にされた動物であった。

 時に支那事変以来戦況は皇軍に敵なしとして威厳。

支那派遣軍総司令官には松根石根大将、続いて寺内寿一畑後六大将が指揮官となっていた。

儚くも兄は海軍27歳出征テニアン島にて戦死、家に残されたのは、母と妻、幼児3人だけ。

やがて弟の重春も現役兵として、昭和20年3月8日満州へ入隊したが6ヶ月で(負戦)終戦日を迎えることになったが、ソ連の捕虜として4年間も重労働、命からがら復員となった。

今後は絶対に戦争は起こしてはならないと痛感しました。




 

【2010/01/19 11:13 】 | 広戸| comment(0)| trackback()
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四十七の一 楠(くすのき) 【郷戸】
47.jpg 福島交通の竜生行きのバスで郷戸の八幡前停留所で下車すると若宮八幡神社の参道入口となっている。

入口から神社を眺めると、境内はひっそりと静まり返っていた。

おもむろに境内を歩むと、古樹(神木)がうっ蒼と茂って、日中でも薄暗くなっている。

小さなため息をつくと小小鳥たちのピーピーという鳴声が聞こえて、神社の威厳も和らげてあたりの散歩ができる。

 神社の右側には、神木樅の木があたかも天を覆うように樹高約32メートルにも伸び正に神々しい。

この樅の木は、昭和58年2月に県の緑の文化第226号に指定、登録された貴重な木である。

 樟(くすのき)は、樅の木の東部(神官宅の裏手)にそびえて、目通2㍍40㌢、樹高約20㍍、今も意気揚々として成長をつづけている。

 伝えによるとは、樟は暖かい地方に多く植樹されているといわれ、我が村は雪国に等しい位に寒く、この地域に植樹されていることは珍しく思います。

樟は、暖かい土地で「ショウノウ」を採取し、大切な衣類を害虫から守る原点「しょうのう」の樹として知られる。

何百年もの長い歳月を経て風雪にも耐えてきた樹は、貫禄十分昔の人が、後世のために植樹されたものと感じ古人たちの優しい気持ちがしのばれる。

【2009/11/25 11:26 】 | 牧本| comment(0)| trackback()
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地図
福島県の地図
f448af02.jpeg
⇓⇓⇓⇓⇓村の部分を拡大した地図 東西2つに分けてあります。⇓⇓⇓⇓⇓
tizu-2.jpg        tizu-1.jpg
一から四十六までの位置を地図上に表示したものです。
四十七以降は追加のため地図上に表示はありません。
各地図をクリックすると拡大されます。
(微妙に現実とずれているかもしれませんがご了承ください。)

現在は、さまざまな理由でなくなっている樹もあると思いますが、興味がある人はぜひ訪ねてみてください。

 
【2009/09/25 11:28 】 | 地図| comment(0)| trackback()
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