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【2024/05/20 09:21 】 |
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四十七の二 馬魂碑 【中屋敷】

47-2.jpg 大字白子板宮神社参道東側に忠魂碑が建立されている。

昭和12年9月15日、馬匹にも軍馬徴発動員令が下達された。

我が白子地区には、良好馬が多いのか、この年12頭、次の年6頭、その次の年も6頭と徴発され農家には痛烈であった。

 しかし戦争に勝つまでは戦いを続けなければといって、近所の主婦たちは、カラ麦を持参し『これを食べて元気でがんばってな、そのうち私の息子も戦地に行くからな。』と馬に声を掛けていた。

 馬の出発の時刻も迫り、隣近所の人々も次々訪ねて来た。

この日は生憎朝から雨が降っていて、馬匹主家の弟重春が、土蔵の前でひとり泣いていた。

近所の婦人が、なぜ泣いていると優しく訊ねると、重春は、雨に濡れて行くのが可哀相だと言って泣き、婦人が、戦争のためだから仕方がない事だと言うと重春は、雨に濡れて行く愛馬を道路まで出て見送った。

口の利けない馬にも通じたのか、馬は50メートルほど先の丁字路で足を止め、見送る里人達に幾度も振り向きながら、征討へと歩んで行った。

 昔は、馬も家人と同じく馬半財産と言われ、大切にされた動物であった。

 時に支那事変以来戦況は皇軍に敵なしとして威厳。

支那派遣軍総司令官には松根石根大将、続いて寺内寿一畑後六大将が指揮官となっていた。

儚くも兄は海軍27歳出征テニアン島にて戦死、家に残されたのは、母と妻、幼児3人だけ。

やがて弟の重春も現役兵として、昭和20年3月8日満州へ入隊したが6ヶ月で(負戦)終戦日を迎えることになったが、ソ連の捕虜として4年間も重労働、命からがら復員となった。

今後は絶対に戦争は起こしてはならないと痛感しました。




 

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【2010/01/19 11:13 】 | 広戸| comment(0)| trackback()
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十一 小川のやまもみじ 【小川】
11.jpg 小川集落の西部、民家より約百㍍くらい離れた北側、県道沿いに青々とそびえ立つ珍木やまもみじと桜がうっ蒼と茂って墓標をしのいで伸びている。

 明治38年、日露戦争により奉天付近の戦いで戦死した、旧日本陸軍軍曹後藤さんの墓碑や、第二次世界大戦で亡くなった十一柱の軍人軍属の墓碑が立ち並んで、通行する人々の安全を見守っているようだ。

 その裏山には小川の薬師堂が祭られ、昔はたくさんの薬草が繁茂し、多くの人々を胃腸病から守ってくれた薬師瑠璃光如来が安置されている。

 やまもみじは年輪を重ね、樹高約14㍍、根回3三㍍、目通り2.2㍍、地上30㌢㍍くらいの上部より二つに分かれているが、幹が絡み合って融合し、若者たちには驚喜感、見る人にはよっては、大きな感動を与えてくれる珍木である。

 道路脇に植えられているせいか、道路に半分以上も枝を拡げ往来する人々を、緑陰へとみちびいてくれる。特に、猛暑あるいはにわか雨などには一時しのぎの場所となり、昔はいこいの場所となり地元民に親しまれた場所である。

 この珍木やまもみじは、昭和58年2月、県緑の文化財第221号に登録された貴重なもみじである。

※残念ながらこの木は、道路拡張工事により伐採され姿を見ることはできない。
【2008/12/08 09:04 】 | 広戸| comment(0)| trackback()
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十 関口家のヒイラギ 【中屋敷】
10.jpg 関口家(旧士族)は村営白子テニスコートの南50㍍に位置し、宅地前にヒイラギが植えられている。

 このヒイラギは江戸時代末期会津の殿様から拝領した木といわれ樹高4.5㍍、根回り1.5㍍で地上から枝が3本に分かれている。
 
 地面に触れるばかりで、秋深くなると白い花が咲きその香り高さは気品さえ感じさせる。ヒイラギは、縁起もので節分には各家々の門口に、その枝の先にイワシの頭をさし悪魔を払う災難除けとして用いられている。

 故関口氏の父、角田氏(士族)は会津の殿様の御典医をつとめ特に疱瘡(天然痘)の名医であったという。故関口氏は四男に生まれ関口家の婿養子となり、次男の兄、角田氏(海軍中将で男爵)は関口家の近くに住まいを建て、その子供、孫達が昭和の中ごろまで住んでいた。

 角田氏は戊辰戦争の際は殿様らと籠城したといわれ、村内板屋屋敷、旧農協牧本支所西隣りには日清戦争で戦死した同地区出身の古川さんの墓標がある。この墓標に当時海軍少将だった角田氏の揮毫があり、村内に残る数少ない彼を知る資料である。
【2008/12/05 09:15 】 | 広戸| comment(0)| trackback()
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九 権現様の一本杉 【今坂】
9.jpg 今坂集落の南方約600㍍の処に、古杉が自然に恵まれ権現杉と呼ばれている。あたりは水田で湿地帯になって居りよくぞ永い歳月風雪に耐えて来た、うっ蒼と茂り臥龍のように枝を四方に伸ばし威厳を保ち正に権現社の神木、神々しさが伺われる。

 樹の根本には鼻取地蔵尊が祀られ、古式時代がこみあげて来る。

 われ目通4㍍、樹高約15㍍で、昭和58年2月に県緑の文化財に指定を受けた重要な杉である。

 伝えに依ると、昔、この地は石背の首長石背國造第三世健与佐命(広戸神社鎮座)し、当地方の開拓の霊廟を安置し、跡地に児渡権現社建立し、米造始めアワ、ヒエなど穀物の神として信仰された。

 明治初期乞食が、一夜の宿をとり火災を起こし、社と共に巨大な松までも焼失したと云われている。

 また、天智天皇の頃、藤原鎌足公が東北巡視された時、公が道に迷い途方に明け暮れた時は、この地より神童「稚児」が現れ、公を案内されたという。
【2008/12/04 10:25 】 | 広戸| comment(0)| trackback()
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八 板宮神社の檜(ひのき)  【白子】
8.jpg 板宮神社の檜は、福島交通の竜生行バスで中白子停留所で下車、西へ歩いて約5分の神社境内にある。

 社殿へ向かう参道沿いには年輪を積み重ね空へ真っすぐに伸びた古杉が立ち並び、その間には三春町出身で明治の自由民権運動のヒーロー河野広中書゛『神光覆天地』の石碑がある。

 石段を登りきったその左右に今回紹介する檜(夫婦檜という愛称もある)が、天高くそびえている。左側の檜は、明治の頃から雷に痛めつけられ、その傷跡が無惨にも残っている。

 この名木は、室町時代中期(天文元年・1532年)に藤原朝臣頼義と手島丹後守藤原義秀の二部将が、社殿拡張再興した際、植えたと伝えられている。

 樹高28㍍、目通り5.3㍍、推定樹齢約460年、昭和58年2月に県緑の文化財第208号に登録された神木である。
【2008/12/04 10:21 】 | 広戸| comment(0)| trackback()
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