大字白子板宮神社参道東側に忠魂碑が建立されている。
昭和12年9月15日、馬匹にも軍馬徴発動員令が下達された。
我が白子地区には、良好馬が多いのか、この年12頭、次の年6頭、その次の年も6頭と徴発され農家には痛烈であった。
しかし戦争に勝つまでは戦いを続けなければといって、近所の主婦たちは、カラ麦を持参し『これを食べて元気でがんばってな、そのうち私の息子も戦地に行くからな。』と馬に声を掛けていた。
馬の出発の時刻も迫り、隣近所の人々も次々訪ねて来た。
この日は生憎朝から雨が降っていて、馬匹主家の弟重春が、土蔵の前でひとり泣いていた。
近所の婦人が、なぜ泣いていると優しく訊ねると、重春は、雨に濡れて行くのが可哀相だと言って泣き、婦人が、戦争のためだから仕方がない事だと言うと重春は、雨に濡れて行く愛馬を道路まで出て見送った。
口の利けない馬にも通じたのか、馬は50メートルほど先の丁字路で足を止め、見送る里人達に幾度も振り向きながら、征討へと歩んで行った。
昔は、馬も家人と同じく馬半財産と言われ、大切にされた動物であった。
時に支那事変以来戦況は皇軍に敵なしとして威厳。
支那派遣軍総司令官には松根石根大将、続いて寺内寿一畑後六大将が指揮官となっていた。
儚くも兄は海軍27歳出征テニアン島にて戦死、家に残されたのは、母と妻、幼児3人だけ。
やがて弟の重春も現役兵として、昭和20年3月8日満州へ入隊したが6ヶ月で(負戦)終戦日を迎えることになったが、ソ連の捕虜として4年間も重労働、命からがら復員となった。
今後は絶対に戦争は起こしてはならないと痛感しました。
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